あの根の根

2017年03月24日

「あの根」からさらに考え続けた「あの根の根」

 以前別の記事の中で「あの根」という記事を書きました。最初に書いた記事の一つなのですが、いまだにあれこれ考え続けています。
 チェコ語では"Ano"は「はい」、"Ne"が「いいえ」という言葉です。続けてしまえば「はいいいえ」、チェコ人からすれば一体どっちなの、ということになります。 さらにややこしいのは、「No~no~no~(イントネーションが大事なのですが)」と続けると「そうそうそう」、という肯定の意味となっていたりします。

「あのね」という言葉を聞くといつも思い出す人がいます。今何しているかな、元気でいるかな、と耳にするたび思います。

 日々の暮らしの中で、AnoなのかNeなのか、だけを問われたり、AnoなのかNeなのかだけを聞きたがる人に出くわします。相手に「Ano」とだけ言わせたいとする人、「Ano」としか言えないような空気を放つ人、その反対に、いつも「Ano」としか言えなくなった人、考えたり立ち止まることもなく「Ano」としか言わなくなった人。そのどちらをも見かけます。
 その一面を、電車の窓ガラスに映った自分を見かけたときのように、気づかぬうちに自分の中にあることに意識することもあります。
 「Ne」が伝えられないそこには、もう「あのね」の居場所はありません。AnoneE(あのねえ)と、自分のありあまるエネルギーmc2を載せてしまってももうそれはアノネになれません。口を開けば「Ne」ばかりを唱えてしまう人、口の中をのぞいてみると、その人の中には何にも「Nee(無ぇ)」、こんどは「Ano」がいられず、再び「あのね」はいられません。
 シャボン玉のようです。ふわっと浮かんだ瞬間にはそれがあるんだ、と捉えられるけれども、触れば消えてしまい、そして引き出しの中にずっとしまっておくこともできません。 遺伝子の配列のようでもあります。「あのね」をローマ字で書き出してみれば、「Anone」ですが、ほんのちょっと文字が消えてしまっただけ、ほんの一文字増えてしまっただけで、全く異なるメッセージを持ったものへと変容してしまいます。そして、その言葉を受け取った人を、また、その言葉を発した人自身をも変えていってしまいます。
  
あなたの隣に「あのね」と言えずにいる人がいるかもしれません。あなたの隣に、あなたが「あのね」と言いたい人がいるかもしれません。あなたが、「あのね」と言えずにいる人がいるかもしれません。あなたに、「あのね」と話しかけられる人がいるのなら、「あのね」と話してかけてくれる人がいるのなら、それは幸せなことだと私は思います。「あのね」の生まれる前にあるのはお互いへの想いや、お互いが築いた信頼の畑のようなもので、「あの根」の後に芽吹くものもまた、新たな芽であったり、より大きな芽、より深く、強くなった信頼の「目」かもしれません。

 自分の周りの「あのね」を私自身大切にしたいですし、読んでくださった方の今日、明日の変化のきっかけにでもなってくれたら幸いです。今日も素敵な一日をお過ごしください。